内藤知周著作リスト

目  次

1.今日の時代と戦後日本の権力問題
一今日の時代と新しい可能性
二戦後日本の権力問題
三日本革命の戦略路線

2.折衷主義を克服するために
 はじめに
一折衷主義の論理
二民族解放民主革命論の批判
 むすび

今日の時代と戦後日本の権力問題

―綱領草案の反対意見―

内藤知周

 

今回の綱領草案は、七回大会の党章草案の見地が、三年間の闘争の点検にたえ、基本的な正しさを証明されたとする立場から、その部分的な補足修正を行なったものである。

この三年間の情勢の発展は、アメリカ帝国主義への依存.従属を利用して復活再起した日本帝

国主義が、安保改定にみられるようにその帝国主義的上部構造の構築・再編・強化をはかるとともに、激烈な世界市場競争にうちかつ競争力の強化、そのための合理化攻勢に懸命の努力をはらった過程として特徴づけられる。

この日本独占の志向に対決する労働者階級と人民の闘争は、勤評警職法闘争から安保闘争へ

と、平和と独立と民主主義の擁護、中立外交への政策転換を要求して、未曽有の政治的昂揚を示すとともに、三池をはじめとする合理化反対の闘争においても、長期にわたるすぐれた抵抗力と戦闘性を示してきた。しかし、この合理化反対闘争は、反独占民主的改革闘争への発展の契機をはらみながら、わが党をふくむ指導の側の政策の貧困のゆえに組合主義的拠点闘争の限界を脱しえず、歯ぎしりしつつ、局地的な抵抗闘争に終始した。労働者階級の反独占闘争のこの弱さは、安保闘争のより以上の発展をはばむ重大な制約ともなったのである。

この情勢の発展と激烈な闘争の試練にたえて、党章草案の政治路線は、よくその生命力を発揮しえたのであろうか。この間、わが党の政治路線は、七回大会の決定である政治報告と行動綱領に規定されその後の中央委員会総会の決議に具体化されてきた。そこには、党章草案の路線がつらぬきながら、同時にこれを批判し修正した反独占民主的改革の路線も、これとからみあって共存していた。急速な情勢の発展と労働者階級の闘争が、事実をもって証明したものはなにか。党章草案の「民族民主革命論のドグマ」が、あきらかに党と労働者階級の運動発展の桎梏となってきたということであり、運動発展の論理は、民族独立の課題をふくむ反独占民主的改革を通じての社会主義革命の展望をきりひらいているということである。

残念なことに、字数の制限は、この点の詳しい論証を不可能としている。ここには、綱領草案の思想方法論と、革命の根本問題である国家権力の問題に限定して、私の意見をのべ、綱領草案とそれに基づく政治報告草案に反対した理由をあきらかにする。

同志諸君の忌憚なき批判を期待する。

 

一 今日の時代と新しい可能性

―綱領草案の方法論批判―

 

一 党章草案は、すでにモスクワ宣言であきらかにされていた世界情勢の根本的変化が、日本革命の展望に新しい可能性をきりひらいていることを正しく評価せず、この新しい可能性を現実今日の時代と戦後日本の権力問題に転化する実践的な立場にかけている。

この点は、七回大会の重要な論点の一つであったが、昨年のモスクワ声明は、その後の国際情勢の発展と国際的な討論にたって、この問題に一層明快な解決を与えている。それは現代に関する創造的な性格規定を行ない、世界共産主義運動に共通の戦略・戦術の基礎をあきらかにした。

われわれが日本革命の展望とその課題を決定するに当たっても、今日の日本社会の歴史的、経済的な発展段階と、この発展段階に究極的に規定される労働者階級と人民の組織と意識の状態をあきらかにし、さらに、資本主義世界体制のなかにおける日本の地位、とくに現在の日米関係の状態を考慮して、日本の具体的な歴史的・社会的諸条件をあきらかにする必要があるが、とくに重要なことはこれらすべての条件が、今日の時代の世界史のおもな発展方向おもな特徴との関連でとらえられる必要があり、そこから生れている問題解決の新しい可能性に注意を向けなければならないということである。

しかし、今回の綱領草案も、モスクワ声明の今日の時代の特徴を、言葉としては一応認めながら、そこから生れる問題解決の新しい可能性を現実に転化する積極的な姿勢にかけている。これは、党章草案から綱領草案を貫く思想方法論の欠陥によるものである。

二 われわれの時代の最もさしせまった問題は、戦争と平和の問題である。

モスクワ声明は、世界を戦争にみちびく帝国主義の法則の存在を確認するとともに、この法則

を制限して平和共存にみちびく社会主義の法則が、今や世界の主要な発展方向を決定する要因となりつつあること、ここにこそ、今日の時代の特徴を見出だしている。この「二つの法則」の闘争から、戦争と平和の「二つの可能性」が生れるが、そのいずれの可能性が現実となるかを決定する要因はもはや帝国主義者の掌中にだけあるのではなく、平和擁護闘争の成否いかんにかかる時代が到来した。ここから、平和擁護闘争を第一義的課題とする実践的な方針が生れるのであり、帝国主義の法則を制限するこの実践活動を考慮にいれて、世界の発展を展望するならば、今日の時代においては、平和共存の展望にたって、われわれの行動の方針を決定することができる。

党章草案から今次綱領草案を貫く見地の根本的欠陥は、この「二つの法則」「二つの可能性」

の相互関連とその主要な側面を明確にしない折中主義である。たとえば、本年一月一八日の『ア

カハタ』主張は、モスクワ声明が「一方では世界戦争の危険が依然として存在していることを強調するとともに、他方では世界戦争を阻止する可能性が存在していることをのべている(傍点筆者)というように、相反する二つの可能性を羅列的に論ずる折中主義的把握にとどまるのであって、このような理解からは、戦争の危険性の強調が、平和擁護闘争の重視となるのでなく、戦争を防止できない可能性、結局は戦争の不可避性の展望にたって行動の方針をたてることが、あたかも最大限に確実な道であるという論理におちいるのである。そこから、平和擁護闘争にたいする軽視が生れ、平和共存の展望にたって行動の方針をたてることを、不確実な可能性をあてにする国際情勢依存主義であり、帝国主義の侵略性を過小評価する日和見主義であり、モスクワ声明を歪曲する修正主義だとして、いわれなき非難をあびせてきだのである。

三 戦争と平和の問題についてあきらかにした綱領草案の思想方法論は、一般的に、今日の時代における帝国主義の法則を制限する可能性、並びに、この可能性を現実に転化する実践の意義を過小評価する。それは、世界を人間実践によって刻々に変化する対象として把握しえない古い唯物論の見地にほかならない。

この思想方法論からは、アメリカ帝国主義の日本にたいする侵略とその支配の深さを評価するに当たっても、その侵略性の実現する国際的・国内的な条件の変化と、それに対応する民族独立の課題の日本革命にしめる位置や解決方法の変化を正当に把握できず、革命なくして独立なしというドグマに固執することになるのであり、また国家独占資本主義の段階にあるわが国で、独占の政策を制限し、その経済構造を部分的に改革して社会主義革命に接近する反独占民主的改革の路線が否定され、革命なくして民主的改革なしとするドグマに固執することとなるのである。

革命なくして独立なしというドグマは、すでに四中総において破産を示し、革命なくして民主・的改革なしとするドグマは、一一中総の「安保条約反対の民主連合政府」のよびかけと、一三中総の独占の制限を要求する選挙綱領の採用によって、すでに実践的にはその破産を証明されているのであるが、その根底にある思想方法論はなお根強く綱領草案のなかに生きつづけている。

 

二 戦後日本の権力問題

―綱領草案の現状分析批判―

 

一 綱領草案は、戦後日本の歴史的発展を規定する主要な要因をアメリカ帝国主義の支配とその志向にもとめ、日本独占資本主義の自己運動=発展法則を副次的な要因とみる見地に貫かれている。それは、戦後の民主改革、サンフランシスコ講和、日本帝国主義復活の評価を貫き、日本の権力問題も、この見地からとらえられている。

二 綱領草案の立場は、戦後日本の民主改革を、アメリカ帝国主義の独占支配のための支配機構の再編ないしは擬制にひとしいものとしてとらえる党章草案の見地をうけついでいる。(注1)

戦後の民主改革が、アメリカ占領軍によって推進され、それゆえにまた人民民主主義革命としては流産させられたことは周知のところである。しかし、この民主改革はもっぱらアメリカ帝国主義の志向によって評価するのは正しくない。それは、わが党の三二年テ!ゼがあきらかにしていた日本社会の矛盾が、敗戦とポツダム宣言に基づく占領という条件のもとで、下からの人民革命でなかったという不徹底さをもつとはいえ、ブルジョア民主主義革命の課題に関する限り、一応基本的には解決されたものとしで評価されるべきである。これによって、天皇制絶対主義国家はブルジョア民主主義国家に転化し、寄生的土地所有制は基本的には解体し、階級矛盾は、労資の矛盾を中心に、国家独占資本主義制度と勤労人民の矛盾へと、根本的に変化した。この改革は、たんに外から与えられたものではなく、日本社会の運動法則に基づく歴史的必然の産物でもあったのであり、それゆえに日本人民の獲得物として定着したのである。

日本の労働者階級と人民の、平和と民主主義を擁護するエネルギーが、どんなに巨大なものであるかは、遠くは破防法反対闘争に、また、ビキニの灰とともに日本全土をおおって、今日なお消えることなき原水爆禁止運動の発展に示され、近くは警職法闘争と安保闘争の昂揚にいかんなく示されてきた。日本人民のこの偉大なエネルギーが、憲法擁護の要求となって成長発展してきた事実を軽視したり、みあやまって、日本革命の展望をたてることはできない。

この憲法擁護のエネルギーこそ、戦争と売国、反動と貧困を結果する独占の政策に反対し、民族独立の課題をふくむ反独占民主的改革に前進する土台であり、憲法はその武器として役立つ性今日の時代と戦後日本の権力問題格を基本的にもっていることを明確に評価すべきである。

三 綱領草案が、戦後の民主改革をこのように評価しえない基礎には、占領下における全一支配論=日本国家滅亡論、ないし日本国家擬制論が存在している。占領下においては、政府も国会も占領支配の機構にすぎなかったとし、日本独占資本主義を土台とする階級支配の道具としての日本国家の存在を否定する日本国家滅亡論からは、ブルジョア国家の形態としての民主主義も、その存在さえ認められないことになるのである。(2)

アメリカ帝国主義の軍事占領と、その侵略的意図にもかかわらず日本国家の存在を保障したものは、「冷たい戦争」開始にさきだつ占領初期には、反ファシズム連合国、の.ポツダム宣言に基づく制約がなお強かったということ、ここにナチ占領下のチェコと異なる事情があったのであり、「冷たい戦争」の激化する占領後期には、アメリカ帝国主義の単独支配は強まるが、社会主義陣営に対抗するためにも、また日本労働者階級の攻撃から資本主義体制を防衛するためにも、アメリカ帝国主義は日本独占を援助し、その階級支配の道具である国家権力を強める方向をとらざるをえなかったという事情によるものである。そして、何よりも、日本が独占資本主義段階にまで発展した国であったということが究極的には、その植民地化を不可能とする基礎的な要因であった。(3)

日本国家滅亡論は、さらに講和後の支配体制を「サソフラソシスコ体制」としてとらえ、日本の国家権力をここに解消する見解の源流となっている点で重要である。

四 占領下日本の国家権力消滅論にたつならば、サンフランシスコ講和によって日本国家が再建されたとみるのでなければ講和後の日本にも国家権力の存在を認めることができないのは、論理上当然である。そこで、党章草案から綱領草案を貫く現状分析は日本の国家権力を誰が握っているかという、日本革命の根本問題に、明確な解答を与えない。党章草案では、アメリカ帝国主義と日本独占資本の合作になる「反民族的な反人民的な支配体制」を想定し、この支配体制を打破して、人民の民主主義国家体制を確立する革命が、当面する革命段階とされるのであって、この「反民族的な反人民的な支配体制」がすなわち「サンフランシスコ体制」であると一般には理解されてきていた。

日本の国家権力と外国帝国主義の支配権力とを区別せず、これを一つの超国家的、超民族的な支配体制としてとらえる権力論からは民族独立の課題の解決は、この支配体制を打破して、日本の国家権力を新しく樹立することとなるのであって、革命なくして独立なしというテーゼが必然的に生れるのである。これと異なり、日本の国家権力と外国帝国主義の支配権力との区別を認める見地にたつならば、民族独立の課題は、日本の国家権力を新しく樹立する問題ではなく、外国帝国主義の支配を排除し、既存の日本国家の主権を回復することが問題となるのである。

占領下における全面講和運動、講和後の日ソ・日中国交回復運動、最近の安保改定阻止・中立政策への転換を要求する闘争など、これらすべての運動は、主権回復の闘争であって、決して国家権力再建の闘争ではなかった。日本の現実と運動発展の論理は、すでに日本国家滅亡論を批判しつくしており、わが党の四中総の決定が、中立政策への転換が独立への道であり、中立という国際法上の法的ステータスによる独立の可能性を、ともかくも確認したとき、革命なくして独立なしというテーゼの破産は、誰の目にもあきらかとなったはずである。

それにもかかわらず、綱領草案は、この破産した理論に新しいよそおいをこらして、八回大会

の花道に登場する。(4)しかし、綱領草案は党章草案の「基本的立場の正しさを確認」しているのであるから、権力問題の規定において、基本的な修正が行なわれたはずはないのであって、いかに新しいよそおいをこらしたとしても、折中主義的権力規定から導きだされる戦略目標は、何よりも「サンフランシスコ体制」の打破であり、日本独占資本主義体制打破の階級的課題は後景にしりぞいていることにかわりはない。

五 綱領草案は、日本独占資本が「,軍国主義・帝国主義復活の道をすすみつつある」ことを認めている。しかし、日本をアメリカ帝国主義に従属する帝国主義国とみる見地を拒否し、半占領・従属国規定を固執する。その理由は、日本は政治的、経済的、軍事的にアメリカ帝国主義の支配下にあり、日本の主要な発展方向を決定するものは、日本独占資本主義の法則でなく、アメリカの支配であるとみるところにある。ここから、先にみた独特の権力規定も生れるのであった。

日本帝国主義は、敗戦によって経済的にも著しく弱まり、占領下で帝国主義的上部構造の殆どを失った。しかし、占領下においても、ドッジ・ラインから朝鮮戦争ブームにいたる間、日本独占は急速に復活した。この復活した日本独占が、占領によって欠落した帝国主義的上部構造の構築を志向するのは必然の法則であり、その障害としての占領制度の廃止、主権回復の要求をもつのは当然であった。アメリカ帝国主義の援助や特需に依存して復活した日本独占が、経済的な従.属関係におちいり、それがまた政治的従属を結果することもあきらかである。それは日本独占の本質を買弁化するものではなく、援助や特需に依存してであろうと、日本独占が復活すれば、それだけ経済的な自主性も強まり、帝国主義的自立の要求を強めるのも法則的なものである。日本独占が、この従属と自立の複雑な要求のからみあいのなかで、ひたすら追及した基本的なもの は、最大限利潤の獲得であり、日本帝国主義の復活と強化であった。

朝鮮戦争下の国際的力関係と、占領の圧力と、経済的従属の条件のもとで、日本独占が政治的

自主性回復のために進んだ道は、単独講和であった。この講和は、ソ・中両国の反対という致命的欠陥をもち、主権回復条項と同時に主権侵害条項(沖縄・小笠原条項と安保条約)をもつ、戦争と売国の屈辱的な講和であった。しかし、それにもかかわらず、占領制度は廃止され、日本の法的主権は基本的に回復され、日本に存在するアメリカ軍は、法的には「日本を支配する外国権力」から、条約に基づいて「日本に駐留する外国軍隊」に転化した。日本帝国主義復活の最大の障壁の一つは、こうして除去された。

綱領草案の誤りは、この講和による変化を形のうえでの変化とみ、実質的には、占領の継続(

面占領の半占領への量的変化)とみるのであって、質的な変化をみないところにある。もっとも、

朝鮮戦争が継続し、占領の惰性の残っていた講和後の吉田内閣の時代は、条約による主権侵害をこえて、アメリカ帝国主義の権力支配ともいうべき事態が残存するが、しかし、この間における第一に国際情勢の画期的変化、第二に飛躍的な日本独占の復活、第三に平和・独立・民主主義をもとめる日本人民の闘争の発展は、吉田内閣をたおし鳩山内閣を成立させ、日ソ国交回復、国連加盟を実現させる。講和によって基本的に回復した法的主権は、その内容を充実する。

すなわち、第一に、この時期は、資本主義の全般的危機の発展が、モスクワ声明のいう「新し

い段階」に入ろうとする画期的な時期であり、朝鮮・インドシナ休戦以後、平和勢力の戦争勢力にたいする優位があきらかになっていく時期である。朝鮮戦争下では「日本に駐留する外国軍隊」が「日本を支配する外国権力」としての圧力と、その転化の可能性をもっていたが、新しい国際的な力関係のもとでは、これを許すか許さないかは、直接には、日本独占とその政府の意思、ひいては、これを制約する日本人民の意思と力いかんにかかる問題に変化したということである。

第二に、それでは、その日本独占は、アメリカ帝国主義への経済的従属のゆえに、アメリカ帝国主義の意図に抗して行動しえないものかどうか。綱領草案の見地にたつ同志の多くは、今日の全般的危機の新しい段階においては、資本主義の不均等発展の法則が変容をうけ、資本主義体制防衛のために、アメリカを盟主とする軍事的政治的同盟に結集する方向が主要な方向であって、日本のアメリカ帝国主義への従属は、崩れることがないという固定的な見地にたっている。

資本主義発展の不均等性の法則は、今日、確かに変容をうけている。経済的な不均等発展の法則が、帝国主義戦争を媒介として自らを貫徹するという形態は、戦争が不可避ではなくなったことによって、変容をうけた。この矛盾を帝国主義戦争によることなくどのような形態で解決するか、ここに、今日の帝国主義諸国の経済・外交政策の最大の課題がある。このための一方策として、東西貿易・平和共存の外交政策にひきつけられる可能性のあること、この独占の動揺、ないし平和共存派への政策的分化の起こる可能性も見落してはならない。一定の条件のもとでは、独占の政府によっても、平和・中立の外交政策への転換が可能であることの経済的基礎がここにある。鳩山内閣の外交政策の転換は、このような経済的基礎に基づく政策転換の端緒形態であった。

第三に、しかしこのことは、米日独占の矛盾から、必然的にその階級同盟や軍事同盟が崩れることを意味しない。鳩山内閣も、最初は独占主流の支持をうけて登場したものではなかった。それが異常なブームをもって政権をにぎるのは、原水爆禁止運動や、日中日ソ国交回復運動に示めされた、平和と独立の国民の要求に対応する政策を示したからであり、それは、鳩山自ら認めているように「保守党を潰さないようにするためには、こうすることがぜひ必要」な日本人民の闘争が存在したからである。

鳩山内閣の外交政策の転換が、端緒形態にとどまったのは、日本独占の政策を制限する労働者階級と人民の闘争が、それ以上に前進できなかった弱さによるものであった。この鳩山内閣の経験は、国際的、国内的な力関係の変化によって、日本の政府が、アメリカ帝国主義の干渉をうけて、ジグザグな道をたどりながらも、ともかくも自主的な外交政策を遂行しうる力を獲得したことを示すものとして画期的な意義をもつ。そして、このことは、民族独立の課題の達成が、日本.人民のアメリカ帝国主義にたいする直接的な干渉排除の闘争とともに、主要には、日本独占とその政府にたいする闘争として位置づけられなければならないことを示すものであった。

日本帝国主義は、鳩山内閣のもとで、経済的にも政治的にも、その復活の基礎過程を完了し、

岸内閣のもとで、激烈な世界市場競争にうちかつための日本独占資本主義の「体質改善」と、その海外膨張政策を保障する帝国主義的上部構造の再編強化に必死の努力をはらった。安保改定は、日本帝国主義がアメリカ帝国主義に従属しつつも、ロ本国憲法をふみにじって、侵略的軍事同盟の一員として、公然と登場したことを内外に宣明するものであった。

日本帝国主義復活完了の画期をどこにもとめるかは、しばらくおくとしても、すくなくとも安保改定以後の現在の日本を、半占領・従属国としてとらえ、帝国主義国としての側面を主要なものとしてとらえることを拒否する綱頒草案の現状分析は誤りである。このような権力規定は、党と労働者階級をブルジョア民族主義のドロ沼に導くであろう。

(1)『前衛』「七回大回報告決定集」九五頁。

(2)日本国家滅亡論の代表的見解は、私の旧稿を批判した岩林同志の「草案の立場は折中主義か」(『団結と前進』第五集)。七回大会の「綱領問題についての報告」(一)の日本国家擬制論も、本質的には同様である。

(3)この点については、中西功「今日の階級矛盾」(『前衛』一九五七・八)と、三一書房『戦後日本の国家権力』所収の諸論文を参照されたい。

(4)今回の綱領草案では、「サンフランシスコ体制」の解釈が、若干あらためられている。しかし、この不明確な規定が、綱領草案の「天元一石」として、権力規定の中心にすえられているのであるから、道は八方に通ずるさまざまの解釈を生みだしている。誤解をせめるよりも、不明確な規定があらためられるべきであろう。

 

三 日本革命の戦略路線

―むすびにかえて―

一 以上の分析から生れる日本革命の展望は、民族独立の課題をふくむ反独占民主的改革を通じての社会主義革命の道である。

民族独立の課題の解決は、アメリカ帝国主義と直接対決する平和と独立の闘争とともに主要には、日本独占とその政府の反民族的な政策とたたかい、その政策を平和・中立の政策に転換させるか、民主的政府を樹立して日本の中立化を実現する以外にないことは、前節の分析の示すところであり、安保闘争の運動発展の論理の実証するところであった。勿論アメリカ帝国主義の諸々の干渉・策動は、日本独占が力をもつかぎり、これと結んで展開されるであろう。これとたたかうためには、何よりも、独占資本主義体制の打破を目指して、広範な反独占統一戦線を結成し、独占の経済的、政治的専制を制限し、さらに民主的政府を橋頭堡として、政治機構を民主的に改造し、経済構造の反独占的改革をすすめ、独占を弱めその抵抗をおさえて、人民権力を確立し、独占を根本的に打倒しなければならない。この闘争は、アメリカ帝国主義にたいする決定的な打撃となるであろう。反独占統一戦線が、平和と独立をもとめる全人民的潮流と合流し、反帝反独占の統一戦線として発展するであろうことも論をまたないところであるが、この統一戦線に依拠して反独占民主改革をすすめて確立される人民権力は、すでにプロレタリアート独裁の開始となることも疑いない。

二 綱領草案の戦略路線は、二つの敵を主敵とするといっても、独占資本主義体制打破の明確な日標を欠き、サンフランシスコ体制打破に集中するところから、反独占闘争の軽視におちいり、党を民族独立の大量宣伝をこととする思想団体的存在に導くであろう。労働運動における党の指導権の回復と、日本革命の前進は、わが党の路線を反独占民主的改革の路線に転換することによって、はじめて保障されるのである。ここに、「八回大会の最も重要な課題がある。

(『前衛』一八五号、一九六一・八)

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折中主義を克服するために

 ―「民族解放反独占革命」論批判―

内藤知周

 

 「マルクス主義を日和見主義に偽造するに当っては、折中主義による弁証法の偽造は、もっともたやすく大衆をだまし、外見上の満足をあたえ、 一見、過程のあらゆる側面、発展のあらゆる傾向、すべての矛盾にみちた影響、その他を考慮にいれているかのように見えるが、しかし、実際には、それは社会の溌展過程の完全な革命的な理解をすこしもあたえていないのである」 (レーニン『国家と革命』国民文庫三四頁)

 

はじめに

 党章草案政治綱領の討議で、私たちの一番こまることは、むずかしくてわからないということです。

 文章や用語がむずかしいとか、説明が簡単すぎるとかいうのではありません。それどころか

『綱領問題について』は「過程のあらゆる側面、発展のあらゆる傾向、すべての矛盾にみちた影響、その他を考慮にいれて」分析されています。しかし、私たちは、いろいろな可能性の迷路にひきこまれ、どれが主要な発展方向なのか、どの可能性を現実に転化すべく努力したらよいのか、その決定にまよってしまうのです。

 草案のわかりにくさ、むずかしさはこういう性質のものです。それは過渡的状態にある現実の複雑さの反映ですが、それだけに、私たちの実践の方針を決定するに当たっては、すぐれて弁証法的でなければなりません。ところが、草案はかんじんなところで、弁証法にかわって折中主義の論理があらわれていると私は思うのです。草案のわかりにくさの原因はここにあります。

 私がこの論丈を、草案の折中主義批判の角度からこう思ったのには、一つの理由があります。

それは、六全協以後のわが党の最大の思想的欠陥が、最大公約数主義、折中主義であり、これが思想と行動の停滞を生みだす原因になっていると思うからです。

 七回大会を目指す、わが党の革新的な転換の過程を成功的に前進するためには、折中主義の克服こそ、現在、最も重要な課題といわねばなりません。

 この小論は、昨年の暮に書いて投稿したものを、その後、宮本同志の『アカハタ』 一月四日号の論丈、紺野同志の『前衛』二月号の論丈に接し、また地方党会議の討論などをふまえて、あらたに書きなおしたものです。しかし私の意見の基本点は、いささかも変わっていません。変わりえなかったことを遺憾としますが、今後諸同志の教示によって、意見の一致に達しうることをねがっております。

 

一 折中主義の論理

  昨年一〇月の全国書記会議における中央委員会の最大公約数的説明によれば、 「草案では権力を誰がにぎっているかという問題提起はしていない」ということであった。なぜ、正面からの権力規定が回避されたか。その理由を、ともに草案支持で一致するはずの宮本、紺野両同志が、 一討論者としての論文で、はからずも示してくれることになった。

同志宮本の権力規定 「日本人民を支配している権力は、たんに日本の国家権力だけでないことは明瞭だし、革命に よって人民に移行すべき権力は、外国帝国主義の支配とそれに従属的に同盟している日本の独 占資本の権力であり・両者はそれぞれの独自性をもちつつも、反民族的反人民的権力として機 能的にはからみあいながら統一されている。」(『アカハタ』一月四日三頁六段)

同志紺野の権力規定

 「アメリカが国家権力の最も重要な部分である、暴力、軍事力を巧みににぎり……」

 「こうして・独立の問題は、権力の問題であり、それをにぎっているアメリカ帝国主義と日本 の独占的大資本家階級の手から、日本人民の連合した手に移す問題である。このような権力の 移動は、革命であり、半占領の民族的支配の終滅は革命の問題であるとともに反民族的大資本 家階級の打倒の問題である。」(『前衛』二月号二二、二三頁)

 同志宮本の権力規定は、外国権力の麦配と日本の国家権力とを明確に区別し、その独自性を確認し、しかるのち両者の統一を機能的なものとしてとらえている。同志紺野の権力規定は、アメリカ帝国主義と日本の独占的大資本家階級が、日本の国家権力をにぎっているというとらえかたをしている。

 この二つの権力規定のちがいは、言葉の、ニュアソスのちがいではない。この小論が全体を通じてあきらかにするように、日本の現状認識についての本質的なちがいを反映している。ところが、草案の現状規定は、この両者を包容できる折中主義的寛容さをもっているのだ。

 この二つの異なった論理構造をもつ権力規定が、どのような「道ゆき」をへて、密月をたのしむことになったか。まことに不粋な話ながら、その「道ゆき」を追跡してみよう。

  『綱領問題について』は、現状規定で示された日本社会の矛盾のあり方が、国際的、国内的要因の発展、その組合せで、将来変化することを認めている。

 第一の展望。国際的、国内的要因がともに有利に発展する場合。

 一〇月の全国書記会議での説明。

 「国際情勢が有利に発展し、国内の統一戦線の力が強まる場合。アメリカ帝国主義の支配を、

 日本の革命にとって外的要因とみとめてよい情勢のひらける可能性もある。しかし、現在このように見ることは、革命の確実性が失われる。」

 会議での私の記憶で論ずるのは正確でないが、一月四日の宮本同志の論文で、同様のことが認められており『綱領問題について』でも、革命の非流血的な達成の「歴史的、理論的可能性」を展望する場合、このような力関係を想定しているとみてよいだろう。

第二の展望。国際的要因が不利であるにかかわらず、国内的要因の有利に発展する場合。

 革命的危機の成熟にたいし、アメリカ帝国主義の強力な干渉、戦争の可能性も考えられる。

 第三の展望。国際的要因が有利であるにかかわらず、国内的要因の不利な場合。

 「帝国主義的自立」の可能性。

 第四の展望。国際的、国内的要因がともに不利な場合。

 第四の場合は、現状規定に変化なく、革命的危機も激化しないから論外として、第三の場合

は、いわゆる『民族矛盾』は根本矛盾でなくなり、独立の課題は一応達成される。しかしそれ

は、労働者階級が目的意識的に追及すべき展望ではないとして、 『綱領問題について』は、しりぞけているから、これも、ここでは考慮すまい。問題は、第一と第二の展望のいずれが実現可能性のある展望か、またわれわれの意識的に努力すべき展望かということだ。

 私が、折中主義として批判するのは、このいずれの展望、いずれの可能性を現実に転化すべ

く、私たちは努力するのか、この二者択一的な決定に当たって分『綱領問題について』 の態度である。第一の展望を否定するでもなく、努力するといいながら、革命の性格を決定するときには、いつのまにか、第二の展望にたっているということである。

 その理由は、同志宮本の論文で、はじめて、明確にされたと思えるのだが、それはこうだ。

 「社会主義への究極目標をかかげ、民族的抑圧の問題を、労働者階級を中心とする人民の勢力 の勝利に従属して提起している革命的プロレタリアートの党としては、国際的要因を考慮しつつ、世界の社会主義と平和、民族解放の勢力の前進と強化と結びつきつつ、単に国際情勢まちでなく、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配をのぞき、権力の人民の側への移行をかちとる最大限に確実な道を、日本革命の問題としてうちたているという問題見地から、今日の具体的な現実にもとついて、未来を展望しなければならない。」(『アカハタ』一月四日四頁二段)

 第一に、同志宮本の見地の欠陥は、国際的要因の有利な発展を展望することを、国際情勢まちとして一蹴するところにある。それは、決して、国際情勢まちでなくて、有利な国際的条件を、私たちの実践によって、国際的なプロレタリアートの連帯の力によって、つくりださなければならないし、つくりだせるという積極的な、能動的な見地であることを、同志宮本は認めない。

 第二次世界大戦後の世界の構造的変化があきらかとなった今日の新しい情勢のもとで、この展望は、たんなる希望的観測ではなく、歴史の客観的な法則にのっとった、実現可能性ある展望であり、この可能性を現実に転化するためにこそ、日本共産党は奮闘すると、なぜきっぱり決定できないのだろうか。

 同志宮本の見地からは、国際的要因を有利に発展させる積極的な実践活動、国際的な連帯をもった平和擁護闘争の意義が過小評価される。

 確かに、帝国主義の侵略性や、戦争の危険を過小評価すべきではないが、第一の可能性にた

って、日本の革命日本の革命を展望することは、なにも、第二の可能性を否定することではな

く、私たちが目的意識的に追及する道をいずれに決定するかという問題であり、私たちの代表も参加してつくられた六四ヶ国共産党、労働者党の「平和のよびかけ」が、十分の確信をもって「いまは戦争をふせぐことができるし、平和をまもることができる」といいきっている。この見地にたって、日本の革命を展望し、私たちの実践の方針がたてられなければならないということである。

 第二に、同志宮本の見地の欠陥は、第一の展望にたって革命の性格を考えるのを不確実として排し、第二の展望にたつことを、 「最大限に確実な道」と考えるところにある。

 革命の最大限に確実な道は、国際的、国内的要因の発展を、われわれの実践活動によるその変化も正しく考慮にいれて追及し、十分科学的に予見することによって保証される。ところが、われわれの実践活動が国際的要因を変化させること―たとえば平和運動―を不確定要因として

しりぞけ、そのうえで革命の展望をたてることが、 「最大限に確実な道」と考えられているが、それは、非科学的、非弁証法的、非実践的な論理といわなければならない。

 また、科学的予見が困難だということから、どちらにころんでもよいような決定をしておくというのでは、 「最大限に確実な道」ではなくて、 「最大公約数の道」であり、そこからは、確信ある、具体的な実践の方針は生れず、追随主義におちいるであろう。

 さらに、この「最大公約数の道」を通って、最悪の場合にそなえておけばまちがいはないというところから、現状規定の矛盾を変化しないもの、固定的なものとみ惹見地にたって、現実には、革命の性格規定をするのである。そこからは、国際的、国内的要因を有利に変化させて革命に進む積極的な努力が軽視され、硬直した戦術と、極左冒険主義の生れる危険性を感ぜざるをえない。

 追随主義と極左冒険主義、この左右の日和見主義が、最大公約数的、折中主義的決定の実践的な帰結である。

  『綱領問題について』並びに同志宮本の論丈は、草案の現状規定に示された矛盾が、革命によらないでも、内外要因の発展によって、変化する可能性があるという見地に、 一応たっていた。そして、最初にみた同志宮本の権力規定の論理構造は、この見地に対応して、外国権力の支配と日本の国家権力を区別し、その独自性を認めることによって、外国権力の支配の後退乃至消滅が、国内の権力の変革とは別に起こりうることをも、矛盾なくとらえうる用意のほどを示していた。

 しかし、同志宮本は、この見地を最後まで貫かず、最大公約数の道を通って、現状規定の矛盾を固定的にみる見地ー紺野同志の権力規定はこの見地に対応するーに後退してしまった。

 紺野同志の意見によれば、「独立の問題は、権力の問題であり……権力の移動は、革命であり・半占領の民族的支配の終滅は革命の問題である」というのだから、革命の性格は必然的に、

民族解放革命の性格をもつことになる。

 他方、宮本同志は、外国帝国主義の支配の排除は、革命によらないでも起こりうる可能性を考慮しつつも、それを「国際情勢まち」としてしりぞけ、最大限に確実な道の論理によって、外国帝国主義の支配を、 「革命によって人民に移行すべき権力」と、無理に見たてて、民族解放革命を主要な性格とする革命の第一段階を設定するところに落着くのであった。

 こうして、二つの異なった論理構造をもつ権力規定が、草案の革命の性格規定においては仲よく密月をたのしむこととなったのである。

 草案の革命の性格は、いわゆる「民族矛盾」の解決を主要な任務とする革命の第一段階=民族解放革命と、階級矛盾の解決を主要な任務とする革命の段階=社会主義革命とが、 「一つの革命の二つの段階」に位置づけられ、第一段階においても反独占の任務が果たされるところから、革命の第一段階は、反帝反独占の人民民主主義革命とされていると理解される。それは結局、五一年綱領の民族解放民主革命の民主=反封建か、民主=反独占と改訂されたにすぎないのではないだろうか。

 もちろん、このような簡単な図式化には、異議がだされるかも知れない。しかし、私は本質的に草案をこのように理解しているのだが、もし、そうでないとしたら、なんとむつかしい草案だろうかということになる。

 私は、 『綱領問題について』並びに、同志宮本の論文が、日本の権力問題について、解決の戸口まで迫りながら、結局、民族解放反独占革命論に後退したのを、まことに残念に思うのだが、「歌いおわった」はずの懐しのメロディーにこれほど後髪をひかれるのは、五一年綱領の自己批判の不足によるものであり、ここに折中主義の根源があると思うのである。

 

二 民族解放民主革命論の批判

 

  『綱領問題について』は、その冒頭、五一年綱領の自己批判を行なっているが、成果もあったが欠陥もあったという、羅列的、折中主義的自己批判で、その誤りの理論的・思想的な基礎にまで検討を加えていない。

 ここに、 「理論的基礎」というのは、五一年綱領作成の最高の責任老が『新綱領の理論的基礎』であきらかにした「植民地・従属国の革命=民族解放民主革命」という規定についてだが、同志志賀のいうように、これは解釈をまちがえたのだろうか。当時の事情に詳しい同志が、もっとこの間の事情を明確にする必要があるだろう。

 ともかく、民主=反封建という誤りは、自己批判された。ところが、民族解放革命という規定は、その歴史的役割だけが成果として評価され、したがって、民族解放民主(=反独占)革命であると規定すれば、占領下目本の革命の性格規定として正確であったということになりそうである。いや、事実そう考えられていて、 「半占領」下日本の革命の性格規定にも、この理論が貫いているのである。

 私は、サンフランシスコ体制下の現在、民族解放反独占革命論が誤りであるばかりでなく、占領下についても誤りだと考えるのであって、この点をあきらかにすることが、今日の「従属」論争を解決するうえで重要であり、草案の折中主義を克服するためにも必要であると思うので、次に、この点を考察しよう。

 二 戦後の日本が、アメリカ帝国主義権力の支配をうけてきたこと、その意味での従属を否定するものは誰もいない。聞題はその性格にある。上部構造である国家権力の性格を把握するためには、まず、その土台の考察からはじめる必要がある。

 アメリカ帝国主義が、占領制度を利用して、日本に、古典的な植民地.従属国にみられるよう

な、外国資本の主導する植民地的な生産関係をつくりだすことができたか。アメリカ帝国主義の意図いかんにかかわらず、それはできなかった。財閥解体・現物賠償方針にたいする、農地改革にたいするとは全くちがった、日本独占資本のしつような抵抗を想起すべきである。さらに、四〇〇〇万就業年齢人口の四三%をしめる労働者階級の民主主義と社会主義をめざす前進を想起すればよい。 アメリカ帝国主義は、日本においても、西欧におけると同様、独占資本を「援助」し、資本主義体制を維持し、日本独占資本と社会主義体制にたいする侵略的軍事同盟をむすぶ方向をとらざるをえなかった。この方向は五一年綱領作成時には、初期の動揺期とちがい、すでに明確であったということができる。

 ところが、当時、私たちは、アメリカ帝国主義の「援助」の、 「奴隷化計画」 「民主主義諸国の工業化に反対の方向」 (コミンフォルム第一回会議のジュダーノブ報告)という側面だけをみて、ここから五一年綱領の「日本工業にとどめをさす」という誤りや、いわゆる「従属経済論」の誤りにおちいっていった。

 「マーシャル・プラン」と「生産性向上運動」は、危機に瀕しだ西欧の資本主義体制を補強するものであったという側面、それはアメリカ帝国主義と各国独占資本との間に新しい従属関係をつくると同時に、独占資本相互の矛盾をたちまち激化するものであつたことも、見落してはならない。

 これにたいして、 「冷い戦争」を強め、 「共産主義の侵略」にたいして、原水爆で武装したアメリカ帝国主義を中心とする「軍事ブpック」に、独占資本主義諸国を編成し、しめあげ、統一してゆく方法がとられた。この「軍事ブロック」は、新しい経済的従属関係の土台の上につくられ、その土台のもつ弱さを補強する上部構造だといえるだろう。

 ついでながら、現在では、この新しい経済的従属関係が、各国の不均等な生産力の発展によって変化し、それを反映して、軍事ブロックに、新しい亀裂を生じ、その再編を迫られつつあることを指摘しておくのは無駄ではあるまい。

 占領下日本において、ドッジ・ラインから朝鮮戦争の過程で形成された、米日独占資本の現実的な関係は、本質的に、西欧のそれと異なるものではなかった。異なるところは、占領制度という上部構造を利用して、この関係が形成されたということである。この上部構造の特殊性から、新しい経済的従属関係の従属度が西欧より強いということも、たとえば、その法的表現としての日米通商航海条約にみられるように、あきらかだろう。しかし、その性格に著しい差異をみることはできない。

 占領制度のもとで、このような米日独占資本の関係が、現実に形成されたということ、これがいわゆるポツダム宣言をアメリカ帝国主義が揉躍したことの主要な内容にほかならない。ポツダム占領制度と、この土台との矛盾の解決、それがサンフランシスコ条約であり、したがって、サンフランシスコ条約は、米日独占資本の新しい経済的従属関係とその上部構造=侵略的軍事同盟の法的表現だということである。

 ここにおいても、日本におけるサンフランシスコ体制下の生産力の著しい発展が、 「新しい経済的従属関係」と矛盾し、その法的表現であるサンフランシスコ条約の改訂を、日本の独占資本自ら、日程にのぼせつつあることを知らなければならない。いわゆる「帝国主義的自立」なるものが、遠い将来の問題でなく、現在の日本の革命を考える場合、十分考慮に価することを見落すなら、硬直した戦術におちいるであろうということ、五一年綱領成立と同時にサンフランシスコ体制への転化が行なわれたと同様の事態をまねくであろうことを指摘しておきたい。

 

 以上の下部構造の考察にたって、占領下日本の権力と革命の問題を考えてみよう。

 

 占領下で、日本の国家は、寄生的土地所有制の解体、天皇制のブルジョア『君主』制への転化により、名実ともに、日本独占資本を唯一の支配階級とする国家に転化した。いかに弱化したとはいえ、また占領制度のもとにあったとはいえ、階級支配の道具としての国家権力は、日本独占資本の手ににぎられていた、とみなければならない。五〇年の国際批判以後、私たちの間に流行し、私もまたある程度感染していた「全一支配=民族国家滅亡=植民地」論の誤りは、明白に自己批判さるべきである。この独占資本の国家権力は、その初期においては、アメリカ帝国主義の権力にささえられ、補強され、代位されつつ、独占資本主義体制を維持し、強化した。

 もちろん占領制度によって、国家主権は全面的に制限され、アメリカ帝国主義の占領目的に合致する範囲内でしか認められなかったが、その占領目的は、先の考察であきらかな通り、日本の独占資本の権力を排除したり、弱めたりするのでなく、むしろこれを強化し、さらに公然たる再軍備によって侵略的軍事同盟形成の方向をめざすものであった。 一 一

 日本の独占資本は、スターリンの指摘したとおり、 「帝国主義的自立」の動因=「深部の力」をもつものであり、それはまた、自らの国家権力を強め、アメリカ帝国主義にたいしても、国家主権の回復を要求する動因をもつものであったということ、このことを見落してはならない。

 私は、先にみたように、日本の独占資本が経済的にアメリカ帝国主義に従属していること、また日本の独占資本の国家権力も、アメリカ帝国主義の政治的従属のもとにあったこと、米日独占資本の侵略的軍事同盟は、日本人民の解放闘争にもそのほこさきを向けていること、これらのことをすべて否定するものではなかった。

 しかし、いわゆる「植民地・従属国」論者との決定的な差異は、占領下においても、日本の国家権力とアメリカ帝国主義の支配を区別するということ、日本の独占資本も、主権の回復を要求する動因をもっていること、このことをはっきり認めるということである。すべての混乱は、この点をあいまいにするところから生れる。そのことは後にみることとして、先に進もう。

 占領下においても、日本の労働者階級が、基本的に対立しているのは、日本の独占資本家階級であり、当面する革命の性格は、基本的に社会主義革命であった。しかし、超憲法的占領軍命令が、労働者階級の社会主義への前進をはばんでいたから、占領支配権力とたたかい、これを排除することが、決定的に重要な戦術的課題であった。それは、どのようにして排除すべきであったか。

 日本の占領の経過からみて、占領制度の廃止は、講和という方法によるべきであり、 「ポ宣言の完全実施、全面講和」という、わが党のかかげた要求は正確であった。日本の独占資本の政府は、占領制度の廃止には賛成であっても、アメリカ帝国主義との侵略的軍事同盟の道=単独講和への道をえらび、そのためには主権の一部制限を甘受する方向に向かっていたのだから、全面講和=完全独立のためには、侵略的軍事同盟の根拠にたいする闘争、すなわち、当時継続中の朝鮮戦争をやめさせ、さらに「冷い戦争」「軍事ブロック」に反対し、これをやめさせる平和擁護闘争が、決定的な要因であった。

 日本の労働者階級は、日本独占資本家階級との闘争に勝利するためにも、この平和と独立をもとめる広範な戦線の先頭にたって、外国帝国主義支配の排除のためにたたかわなければならない。さらに、この平和と独立の要求を独占資本の政府につきつけ、その反人民的、裏切的政策をバクロすることにより、平和と独立をもとめる全人民的潮流を反独占の統一戦線に組織し、この統一戦線の力に依拠して、統一戦線政府の樹立、全面講和、全占領軍の撤退をたたかいとり、社会主義への道を進む基本方向をとるべきであった。この道が超憲法的占領軍命令のはばむところとなったとしても、那覇市民が瀬長市長の追放に兼次市長の当選をもって応えたように、長期かつ困難なたたかいにたえ、国際的・国内的な平和と民主主義の力を強め、日本の独立の課題を、民主主義的平和的方法で解決する方針をとるべきであった。

 このような革命の基本路線は、どのように定式化さるべきであったか。五一年綱領は、この

時、日本の革命を民族解放民主革命と規定した。この規定が、日本の経済的発展段階、アメリカ帝国主義の支配の性格、労働者階級の意識と組織の現状を、全く誤ってとらえた現状規定に立つものであったことは、先にのべたところであきらかであるから、繰返さない。では、民主=反封建を、民主=反独占とすれば、それで当時の革命の性格規定として正しかったか。以上の考察を基礎に、その誤りをあきらかにしよう。

  第一に、民族解放民主(=反独占)革命という革命段階の設定は、日本の独占資本を買弁的独占資本とみるところから生れる。この場合には、民族解放統一戦線と反独占統一戦線とは矛盾しない。そして、この革命の主要な内容は、アメリカ帝国主義権力の排除である。

 ところが、現実には、日本の独占資本は、「帝国主義的自立」、占領制度の廃止=独立の要求をもつ独占資本であった。ここから混乱が生れる。現に生れた。

 民族解放というブルジョア民主主義の要求を、主要な課題とするならば、占領制度の廃止を要求する独占資本も、直接予備軍になるのである。こうした五一年綱領の誤った解釈をあらためたはずの六全協の決議にして、なおかつ、 「党は占領制度に不満をもっている大ブルジョアジーを、……中立化させることができるとかんがえる」といっている。

 民族解放革命という段階を設けることは、それに、民主=反独占の但し書きをつけても、階級矛盾の軽視を生む。いや、統一的に理解するのだといっても、民族解放の戦略配置と、反独占の戦略配置は一致しないから、そのいずれかが形容詞になる。そこから混乱が生れるのであった。

 五一年綱領の階級矛盾の軽視、それが党と労働者階級の結合をいかに弱めたか、そしてその時期がまた「独占資本との対決」をふりかざした総評ー左派社会党の発展の時期であったという、謄史的な事実にたって、私たちは、この点、深刻な自己批判を必要とする。

 第二に、民族解放民主(=反独占)革命論は、日本の国家権力を古典的な植民地.従属国型の

国家権力とみるところから生れる。

 日本にたいする外国帝国主義の支配の排除は、自国の国家権力の変革と不可分のものではないという、この点が理解されないところから混乱が起こる。現に生れた。

 占領制度の廃止は、独占資本の国家が講和をむすぶこともできる。これは革命ではない。しかし、占領制度による外国帝国主義の支配を排除することはできる。サ条約でも、占領制度は廃止された。ところが、民族解放民主革命論者は、革命がないのにこれが行なえるはずがないと思うから、サンフランシスコ体制への転化の意義がつかめず、いつまでも戦術転換ができなかった。

占領の継続、半占領の強調、それが今日でもひきつがれている。

 サンフランシスコ体制によって、独占資本の国家は、主権を基本的には回復した。それは、日本の労働者階級にとっても大きな意義をもっている。超憲法的占領軍命令の廃止、これによって、憲法の保証する国民主権を、労働者階級の意識と組織の発展によって、現実のものとする法制的な準備ができたということ、このこと一つとっても、それは重大な変化であり、革命の平和的移行の一つの有力な武器を与えるものであった。

 といって、誤解のないようにことわっておくが、サンフランシスコ条約は占領制度を廃止したが、それは新しい侵略的軍事同盟の条約であり、そのほこさきは日本人民の闘争にも向けられており、外国帝国主義の支配は、今日なお残っている。サンフランシスコ条約によって基本的権力関係はなんら変化はないともいえるのである。しかし、以前にもそうであり、サンフランシスコ体制のもとでもそうなのだが、この外国帝国主義権力の排除は、国家権力の変革=革命とは別の問題なのである。

 これをもっぱら革命の問題と考えるから、平和擁護闘争の意義が軽視される。五一年綱領以 後、平和擁護闘争を革命運動に解消する偏向の生れたのは偶然でない。スターリン論文でこの偏向は是正に向かったが、すると今度は、平和擁護闘争が、外国帝国主義の支配の排除、日本の独立のために果たす、決定的意義が軽視された。日本の革命における平和擁護闘争の位置づけは、なお混乱をつづけている。占領下平和擁護闘争の決定的重要性をいち早く強調した先覚的指導者同志宮本にして、今、平和擁護闘争による外国帝国主義支配の排除の方向を、 「国際情勢まち」とすることは、先にみたところである。

 それだけではない。民族解放民主革命論の見地からは、国交回復運動の意義が軽視される。日ソ交渉以前、日ソ国交回復が、日本の革命なしにできると考えた日本共産党員はどれだけいたか。私はこれを疑問とする。

 外国帝国主義権力の支配の排除と、国家権力の変革=革命の問題を、明確に区別すること、その解決方法もまた異なるという見地にたつならば、この二つの課題を混同して、一つの革命の段階を設けることが誤りであることはあきらかであろう。勿論、この二つの闘争は統一されなければならないが、性質と解決の方法を異にする問題を、無理に一つの革命として定式化するのでは混乱が生れるだけである。

 第三に、民族解放民主(=反独占)革命論は、外国帝国主義の支配の排除も、したがってまた、

その支配のもとでは国内の民主的変革も、民主主義的ハ平和的方法では解決できない、まずその民主主義を確立しなければならないというところから生れた。

 国際間題は、民主主義的平和的方法で解決しなければならぬし、解決できるという、第二次世界大戦後の世界の構造と力関係の変化を、見失ってはならぬ。たとえ、超憲法的占領軍命令の制約はあろうとも、ポツダム宣言に基づく民主的変革により、確立されてきた日本の民主主義を過小評価してはならない。だが、朝鮮戦争のもとで、国連は「戦争の道具に、新しい世界戦争誘発の手段に転化しつつある」(スターリン)という情勢のもとで、国際問題の平和的解決への私たちの確信はゆらいでいなかったか。他方、ポツダム宣言に基づく民主的変革を、すべて欺瞞とみる偏向は明確にあった。国際的な民主主義牲民族解放、国内的な民主主義11反封建をたたかいとるところに、一つの革命段階がおかれた。民主主義のないところ、民主主義を確立するたたかい、それは「平和によって達成しうると考えるのはまちがいである」という規定が、論理的必然性をもって生れたのではないだろうか。

 極左冒険主義が、党と大衆との結合をどんなに破壊したか。このことの深刻な自己批判が行なわれなければならないが、それはただ、戦術の誤りではなかったはずである。

 占領下においても、外国帝国主義の支配の排除は、民主主義的、平和的な方法で解決すべきであり、党はその方向に基本路線を設定すべきであったということ、国内的にブルジョア民主主義革命の課題はすでに基本的に解決されていたということ、しかもなお、民族解放.民主革命論者は、当時の革命を、依然として民族解放民主(=反独占)革命と規定すればそれで正しかったといいはるであろうか。

 

むすび

 

 私は、 「一、折中主義の論理」において、草案が、国際的、国内的要因の変化から、外国帝国主義権力の支配の変化する可能性を認めていることを確認した。ところが、草案は、その要因を積極的に有利に変化させる実践的見地をとらず、 「最大限に確実な道」をもとめて、外国帝国主義権力の排除を、 「革命の問題」とする見地、すなわち民族解放民主革命論に移行する道ゆき(=「折中主義の論理」)をあきらかにした。

 「二、民族解放民主革命論の批判」において、このような民族解放民主革命論は、占領下日本においても誤りであることをあきらかにした。この点の自己批判の「中途半端」が、今日なお民族解放民主革命論を強力に残存させており、同志宮本にして、問題解決の戸口に迫りながら、これへの妥協、折中主義におちいるという事態を現出していると考えたからである。

 最も重要なことは、日本の国家権力と外国帝国主義の支配とを区別することである。さらにこの二つの権力をかたづける方法を明確に区別することである。それは、艮本独占資本の性格、第二次世界大戦後の世界構造の変化、そこから規定されるアメリカ帝国主義の支配の性格が、このような認識の方法を要求しているのだ。この区別を明確にすることによって、私たちは、理論的混途ど実践的過誤から免れうるであろう。

この区別を明確にしないとき、弁証法は折中主義に転化する。同志宮本は、二つの区別を認め

る立場にはっきり立ていた。ところが、その矛盾の解決方法を、一つの革命に定式化してしま

った、かくして、「一つの革命の二つの段階」論として、民族解放民主革命論の再版にたちつ

く。

 私は、すでに占領下においても、民族解放民主(=反独占)革命という規定は誤りであること

を批判した以上、サンフランシスコ体制下の再版をあらためて批判する必要を認めない。

 五一年綱領は、サンフランシスコ講和の前夜につくられた。五七年党章草案は、日本の「帝国主義的自立」の前夜につくられようとしている。しかもなお私たちは、民族解放民主革命の歌を歌いつづけようとしているのだ。今、全党的に、大衆からの遊離が憂えられ、反省されているとき、その反省は何よりも、民族解放民主革命論の批判に向けられなければなるまい。この自己批判をあいまいにし、折中主義的な妥協をもって、党の統一と団結を保持しようとするならば、それは思想と行動の停滞を生むのである。

                   (『前衛』別冊『団結と前進』第四集、一九五八.)
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